1 はじめに
認知症の高齢者が作成した複雑な内容の遺言書の遺言能力が否定された東京高判平成12年3月16日を紹介します。
2 事案の概要
1 本件遺言の前後を通じての遺言者の生活状況及び精神状態
●平成3年頃~
太郎(八六歳ころ)の動作や歩行に緩慢さが現れ、身体的機能が低下するとともに理解力も低下するようになり、自分の発言内容をすぐに忘れる一方で、同じ内容の昔の話を何回も繰り返すといった記憶障害がみられるようになった。また、太郎は、自宅内のトイレの場所を間違えたりするほか、冷蔵庫内の食物をあさり、生肉をそのまま平気で食べたり、時には、茶碗に味噌と「ムヒ」(かゆみ止めの軟膏)を絞り入れて食べようとするなどの行動がみられた。
●平成5年3月16日
太郎についてデイホームの利用を希望する旨の申請書の希望理由として、「無気力、無活動で歩くのも家のなかをヨチヨチ歩く程度。食べることだけは旺盛で生肉などまで食べてしまう。自分でもトイレにいくが、失禁。生活リズムをもたせたい」と記載され、「問題行動」の欄のうち、「失禁等でよごしたり、不潔になっても無関心である」「自分の部屋、トイレ等場所をまちがえる」という事項に○印が付けられている。
●平成5年3月13日
改訂長谷川式簡易知能評価スケールのテストを実施したところ、その結果は30点満点で4点であった。太郎は自分の年齢や現在の年月日については答えることができなかった。
●平成5年4月7日~
太郎はショートステイに入所したが、トイレの失敗が目立ち、失禁で下着を濡らしたり、ゴミ箱や室内の植木への排尿ないし放尿などの排泄に関する異常行動がみられ、また、二か月後には便いじり等の行動もみられた。そのほか、ショートステイの期間中、施設内を徘徊し、自室に戻れなくなり、他人の居室に入り込んだりして入室者に叱責されたりした。
●平成5年5月末頃~
太郎は主食を摂取しないようになる一方で、陶芸教室では粘土を食べたり、紙染め用の水差しの水を飲もうとしたりしたほか、薬用軟膏をなめ、あるいは急須内の茶葉をつまみ出して口に入れたりするなどの行動がみられた。
2 控訴審での鑑定結果
太郎の精神能力は、平成3年ころから数年かかって徐々に低下し、遅くとも平成5年3月21日までには高度の痴呆状態にあった。
3 遺言書の内容
平成5年2月25日に作成された公正証書遺言の内容は、本文14頁、物件目録12頁、図面1枚という大部のものであるうえ、その内容は極めて複雑かつ多岐にわたるものであった。
3 裁判所の判断
「太郎の痴呆状態の程度について検討するに、前記認定のとおりの太郎の高度な知的機能障害の存在及び須貝鑑定・・によれば、痴呆の程度も高度なものというべきである。そして、須貝鑑定によれば、右の症状は急速に現れたものではなく、徐々に進行していったものと認められるので、本件遺言公正証書の作成時期が、右テストが実施される約一か月前であることを併せ考えれば、右作成の時点においては、太郎は高度の痴呆症状にあったものと認めるのが相当である。しかも、《証拠略》によれば、本件遺言公正証書は本文一四頁、物件目録一二頁、図面一枚という大部のものであるうえ、その内容は前述のとおり極めて複雑かつ多岐にわたるものであって、法律実務家が一読しても直ちには理解できないと考えられることに照らせば、当時、高度の痴呆症状にあった太郎において右遺言内容を理解し、判断できる状況になかったことは明らかである。」
「以上のとおり、本件遺言公正証書作成時点において、太郎は重度の痴呆症状にあり、本件遺言の内容を理解し、判断することができなかったものであるから、本件遺言は無効というべきである。」